「令和の怪物」と呼ばれ、驚異的な速球とコントロールで日本球界を席巻した佐々木朗希投手。
2022年のプロ野球史上最年少での完全試合達成、2023年のWBC日本代表としての活躍、
そして2025年からドジャースでのメジャーリーグ挑戦と、その活躍の場を広げ続けています。
しかし、彼の輝かしい野球人生の裏には、東日本大震災で父親と祖父母を亡くした悲しい過去があります。
そして、それを乗り越えるために支えとなったのが、家族の強い絆でした。
この記事では、佐々木朗希投手の家族構成について詳しく掘り下げ、
父親の死、母親の職業、兄弟との関係など、様々な角度から解説していきます。
逆境を乗り越え、世界的な投手へと成長した佐々木朗希の背景にある家族の物語をお届けします。
佐々木朗希の家族構成まとめ!

佐々木朗希投手の家族構成は以下の通りです
- 父親:佐々木功太さん(享年37歳・東日本大震災で他界)
- 母親:佐々木陽子さん(50歳前後・保険会社営業)
- 兄:佐々木琉希さん(朗希より3歳年上・大手広告代理店勤務)
- 本人:佐々木朗希さん
- 弟:佐々木怜希さん(朗希より4歳年下・中央大学野球部)
- 祖父:佐々木功さん(享年71歳・東日本大震災で他界・行方不明)
- 祖母:佐々木勝子さん(享年69歳・東日本大震災で他界)
震災前は祖父母を含めた7人家族でしたが、東日本大震災で父親と祖父母を失い、
現在は母親と兄弟3人の4人家族となっています。
佐々木朗希の父親は葬儀屋だった!?

人柄と職業
佐々木功太さんは、葬儀屋に勤務していました。
地元の陸前高田市では人望の厚いリーダー的存在で、
夏祭りでは町内会を率先して盛り上げる「太陽」のような存在でした。
身長181cmのスポーツマンであり、スノーボードやバスケットボールを得意としていましたが、
野球経験はありませんでした。
それでも、息子たちと野球をすることを楽しみ、特に朗希さんとはキャッチボールを日課としていました。
父から息子へ伝えられたもの
功太さんは、朗希さんの野球の才能を早くから見抜き、「将来プロになれる」と言っていたといいます。
震災の当日も、「帰ったらキャッチボールしよう」と約束していたそうです。
実際には功太さんとのキャッチボールは叶いませんでしたが、
朗希さんは「大好きな野球を続けることが父との思い出を繋ぐ方法だ」と考え、
困難な状況の中でも野球を諦めませんでした。
功太さんの「楽しいときは楽しみ、悲しいときは悲しむ」という姿勢は、朗希さんの人生観の基盤となっています。
試合前には父と祖父母の写真に「行ってきます」と声をかけることを日課にしているといいます。
佐々木朗希の母親は住友生命で働いていた!?

献身と支え
震災後、シングルマザーとなった陽子さんは、3人の息子を懸命に育てました。
保険会社(住友生命との情報もあり)の営業職として働きながら、家計を支えました。
朗希さんが高校3年生の頃には、ご飯3合とおかずを詰め込んだ弁当を毎日作っていたそうです。
3人の息子が野球をし、成長期であったため、1週間で米10kgを消費するほどでした。
子育ての方針
陽子さんは「寝る子は育つ」という考えのもと、子どもたちが小学生の頃は20時には就寝させていたといいます。
この習慣づけが、朗希さんの192cm・92kgという恵まれた体格の基礎となったといわれています。
また、子どもの意志を尊重する「放任主義」でもあり、子どもたちの希望に応える形で育児をしていました。
朗希さんがプロ野球選手としての道を歩み始めたときも、全面的にサポートしました。
朗希から母への感謝
朗希さんは

今、こうやってプロ野球で野球ができているのは
母のおかげだと思っています
と、母への感謝の気持ちを公言しています。
小学4年生の母の日には、100円ショップで購入したタオルハンカチをプレゼントしました。
値段ではなく気持ちが大事だと、母の喜ぶ姿を見て学んだといいます。
プロ初勝利を挙げた2021年5月27日のヒーローインタビューでは、ウィニングボールを「両親に渡したい」と即答。
この言葉に陽子さんは号泣したそうです。
プロ初勝利のボールは現在、実家の仏壇に飾られているといいます。
佐々木朗希の兄は電通に勤務!?


父親代わりの存在
震災で父を失った後、当時12歳だった琉希さんは
「家族が暗くなるのは嫌だ。自分がしっかりしてみんなで頑張りたい」と決意し、
家族を支える存在となりました。
母親からは「父親代わりになってくれた」と感謝されるほど、家族のまとめ役を担いました。
朗希さんに対しては、厳しく接することもありましたが、
それは朗希さんの野球に対する向上心を刺激するためでした。
野球の師匠
琉希さんは小学生時代から野球に親しみ、高田野球スポーツ少年団でピッチャーとして活躍していました。
朗希さんは3つ上の兄がピッチャーをしている姿に憧れ、自身もピッチャーを志したといいます。
大船渡高校では琉希さんは4番打者を務め、朗希さんは「兄に認められたい」という思いで練習に励みました。
朗希さんが中学3年生の時、140km/hを投げられるようになると、
琉希さんは直接指導から「なぜそう考えたの?」「どうしてその練習方法を選んだの?」
といった質問形式に切り替え、朗希さんの自主性を育てました。
現在の職業と影響力
琉希さんは東北学院大学教養学部を卒業後、大手広告代理店に入社したといわれています。
一部では「電通」に勤務しているとの噂もありますが、公式な確認はありません。
広告業界での知識や経験を活かして、
朗希さんのブランディングやプロモーション活動をサポートしている可能性も指摘されています。
朗希さんのメジャーリーグ挑戦においても、
国際的なブランド価値向上などの面で琉希さんの経験が生きることが期待されています。
名付け親としての琉希さん
朗希さんの「朗希」という名前は、
当時3歳だった琉希さんが特撮ドラマ「百獣戦隊ガオレンジャー」の登場人物「狼鬼(ロウキ)」から
発想を得て提案したものだといいます。
母親の陽子さんは「悪役だけどカッコいいし、響きもいい。人とかぶらないしいいんじゃないか」と納得し、
佐々木朗希という名前が決まりました。
佐々木朗希の弟は中央大学野球部に所属!?


野球への道
朗希さんより4歳年下の怜希さんも野球の道を歩んでいます。
兄たちと同じ大船渡高校野球部に所属し、1年生からベンチ入りしました。
右投げ右打ちの内野手として活躍し、高校3年時には投手としての才能も開花させ、最速142km/hを記録しました。
俊足を活かした走塁も得意としていました。
現在の活動
2024年4月から東都大学野球リーグの名門・中央大学野球部に所属しています。
入寮を終え、右投手として活躍が期待されています。
朗希さんが使用していた白いショルダーバッグや投手用グラブを譲り受け、大切に使用していました。
兄弟間のコミュニケーションも活発で、一緒にパワプロをするなど、良好な関係を続けています。
兄に対する思い
怜希さんは朗希さんについて「優しいです」と語っています。
パワプロで対戦する際、朗希さんは強いチームを選ぶ弟に対して、
あえて戦力が整っていないチームを選んで勝負するなど、配慮を見せるそうです。
「兄のレベルは違うので、プレッシャーはそんなに感じていません」と語る怜希さん。
兄の背中を追いながらも、自分の道を着実に歩んでいます。
佐々木朗希の東日本大震災の体験と家族の喪失


震災当日の状況
2011年3月11日、東日本大震災が発生した当時、佐々木朗希は岩手県陸前高田市の小学校3年生でした。
地震発生時、朗希さんは学校にいて、先生たちの指示に従って近くの高台に避難し、命を守ることができました。
一方、父親の功太さんは津波に巻き込まれ、同居していた祖父母も被害に遭いました。
自宅も津波によって流失し、家族の生活は一変しました。
父親の発見と家族の悲しみ
震災から5日後の3月16日、功太さんの遺体が発見されました。
大船渡市の親族宅に避難していた佐々木家に「見つかりました」との連絡が入りました。
当時9歳だった朗希さんは、「見つかった!?」と目を見開いたそうです。
「見つかりました」という言葉の真意を理解するには幼すぎた朗希さんの表情を、
母親は今でも鮮明に覚えているといいます。
祖母の勝子さんも翌日の3月17日に発見されましたが、祖父の功さんは現在も行方不明のままです。
幼い朗希さんは、あまりにも過酷な現実に、しばらく家族と会話ができなかったといいます。
佐々木朗希のプロフィール


- 名前:佐々木朗希(ささき ろうき)
- 生年月日:2001年11月3日
- 年齢:23歳(2025年3月現在)
- 出身地:岩手県陸前高田市
- 身長:192cm
- 体重:92kg
- 利き腕:右投右打
- ポジション:投手
- 所属球団:ロサンゼルス・ドジャース(2025年〜)
- 前所属:千葉ロッテマリーンズ(2020年〜2024年)
- 背番号:17(ロッテ時代)
- プロ入り年度:2019年
- ドラフト順位:ドラフト1位
- 経歴:大船渡高等学校
まとめ
佐々木朗希投手の家族構成を見てきました。
東日本大震災で父親と祖父母を失いながらも、残された家族の深い絆により、
困難を乗り越えてきた姿が浮かび上がってきます。
シングルマザーとなった母・陽子さんの献身的なサポート、
父親代わりとなり野球の師匠役も担った兄・琉希さん、そして同じく野球の道を進む弟・怜希さん。
家族全員の支えがあったからこそ、佐々木朗希は「令和の怪物」と呼ばれる投手へと成長できたのでしょう。
試合前に父と祖父母の写真に「行ってきます」と声をかける佐々木朗希。
その行動からは、今も家族への思いを大切にしている姿勢が伝わってきます。
彼の投球には、父親の教え「楽しいときは楽しんで、悲しむときは悲しんで」
という人生哲学が宿っているのかもしれません。
逆境を乗り越え、家族の絆に支えられた佐々木朗希の今後の活躍に、さらなる期待が高まります。






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